徳さんはどっち

 

箱根駅伝を自宅近くで観戦しながら一人実況中継をする徳光和夫さんが、正月明け日曜の楽しみだったのだが、今年はそのコーナーもなくなったようだ。
で、「徳」の字。
当用漢字表の官報で使われた活字では「」(U+5FB7)だったが、当用漢字字体表で「徳」(U+5FB3)となった。
そのため、「徳」が新字体、「」が旧字体ということになっている。一画だけの違いなので、JISではこれを包摂してきた。「」が使いたい場合は「旧字」と注記しなければならなかったわけだ。
ただ、IBMは「」を符号化していたので、そのままWindows外字へと受け継がれ、機種依存文字ながら使うことは可能だった。
Unicodeでは実は中国、台湾、韓国いずれも標準は「」であり、「徳」が標準なのは日本だけということで、危うく統合を免れたというところだ。
そして2000年のJIS X 0213で、「」は第3水準に入った。人名用漢字の許容字体であるから包摂規準の例外とするという判断で。
しかし、「戸籍がそうなっているから、高を梯子高にしてくれ」とはよくいわれるが、「徳」を「」にしてくれとはあまりいわれない。
徳光さんの名字は「光」なのか、そうではないのか。

で、弘道軒清朝を見てみよう。ご覧の通り両方あり、「」の清刷にはなぜかバッテンがついている。バッテンのついたものは大抵印字が不良で活字を取り替えて再度印字しているのだが、「」はそうではない。謎である。
新字体の「徳」を作ったので旧字体の「」を使わなくなった、だからバッテン……ではない。
明治の弘道軒清朝は「徳」なのだ。


左は『小説神髄』の「道徳」。楷書なのに二点しんにょうの「道」もご愛嬌だが、「徳」が旧字体でないことを確認してほしい。

さらに「官員名鑑」から宮内卿・徳大寺實則の名前を、清朝と明朝の両方の版で掲げると……。
 

清朝は「徳」、明朝は「」になっている。宮内卿の名前を間違えた筈もない。明朝体康熙字典体だから「」、楷書体の清朝は「徳」。同じ字だからそれでいい。
ただ、この明治の清朝の「徳」は、岩田の清刷の「徳」と同一ではない。十画目の左への突き出しではっきりわかる。
ということは、まず「徳」があって、康熙字典体の「」が追加され、さらに当用漢字字体表に合わせた「徳」が出来た。そういう流れが推測できる。

HNGで、「徳」の字を検索すると、
http://www.joao-roiz.jp/HNG/search/word=%25E5%25BE%25B3&ratio=1.0

開成石経以来、「」が書かれるようになったものの、「徳」も同じくらい書かれている。
「徳」の方が古い、伝統的な字体ということになる。
また『宋元以来俗字譜』では12の書物中8つで「徳」が採取されている。俗字といいつつ、こちらが普通ということを示しているのかも。

Unicodeで「」の異体字を拾ってみると、
「㥀」(U+3940)「㥁」(U+3941)「徝」(U+5F9D)「恴」(U+6074)「悳」(U+60B3)「惪」(U+60EA)「憄」(U+6184)「𢛳」(U+226F3)「𢜖」(U+22716)「𢠀」(U+22800)「𢤊」(U+2290A)「𨗌」(U+285CC)「𨗤」(U+285E4)
随分あるが、台湾教育部異体字字典などを参考に、ざっと拾っただけなので、ほかにもあるかもしれない。

また漢典で「」の字体変遷を見ると、
http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5ZdicBEZdicB7.htm

金文の字体は「徳」、つまりこれも説文が「悪さ」をしているのではないかという疑いが出てくるわけで……。まさか「𡚴」を「妛」にしてしまったようにミスで線を増やしてしまったわけではないだろうが、「直」の音が欲しかったのでつい……、などと妄想を膨らませてしまう。

落合淳思『甲骨文字小字典』で「徳」を探すと、「彳+直」だと説明している。「徝」が初文だと。しかし甲骨の図は「乚」(または「一」、中国の「直」は横1本)がない。
説文以来の解釈では、「悳」に彳がついたものだとするのだが、どうも「心」のない「徳」の方が古いということになる。
『字通』ではこの「十+目(横目)」は「省」だと書いている。
これをヒントに、CHISE IDS 漢字検索で探してみると、
http://www.chise.org/chisewiki/view.cgi?char=&MCS-000F30F7;
という甲骨文字を見つけることができた。

ちなみにフリーフォントの草書体で「徳」は右のようになる。

「心」はない。草書では心のあるものないもの共に存在するが、隷書では殆ど心がついている。
心のない草書は小篆以前の字体から直接発生したのかも知れない。