ツジさんの話


校正者の先輩にツジさんという人がいた。彼は雑誌や書籍より新聞社の仕事が好きだと漏らすことがあったが、その理由を酒の席で聞いたことがある。新聞の仕事はその日1日で終わる。出来上がったものも1日で古新聞になる。そのスピード感がいいと別の先輩が言ったが、ツジさんの理由はちょっと違った。「新聞のツジは一点だからな。俺の名前と一緒だ」。
確かに新聞社の活字では「辻」は一点しんにょう、雑誌や書籍ではDTP以前は二点しんにょうだった。校正者という、いわば文字の専門家の一端でも、こんなことに拘ってしまう。不思議なものだなと思った。
だが、校正者にはしんにょうの点の数に拘る理由はあった。当時は常用漢字は一点、表外字は二点とくっきり分かれていたので、表外字を使わない媒体の仕事でそれが目安になったのだ。そして、「逝」「遮」のように当用漢字表になく、常用漢字表で追加された漢字、また「遼」のように人名用漢字に追加された漢字も一点に変えられることになった。活字ならその字の母型を新造すれば済むが、写植の場合は高価な文字盤を新調しなければならない。零細企業の写植屋さんには文字盤の更新が遅れ、二点の「逝遮」を含んだゲラを出校するところが少なくなかった。80年代を通して、校正者たちはしんにょうの点を数えては朱を入れ続けた。ただ、80年代には人名用漢字の字体を出版物すべてに適用するという発想はなかった。「遼」が人名用漢字に追加されても、「司馬遼太郎」は二点しんにょうのままで出版され続けた。
ツジさんは常用漢字表の改訂を待たずに亡くなった。「遜」や「遡」が二点のまま表内字となる事態を見ることなく。



ところで、弘道軒清朝では楷書であるにも拘らず、二点のしんにょうが存在する。「点の数を数える」ことなど考えもしなかった明治の人々にはどうでもよいことだったはずだ。


一方、戸籍や登記の文字を拾った「汎用電子」のグリフでは、無点や三点の「辻」も存在する。無点はおそらく原簿が草書で書かれていたものだろう。もともとの「⾡」の形に引きずられれば三点も(隷書のように)あって当たり前ではある。手書きの字形が無数にあろうと、印刷字体にそんな区別はいらない。