片塩氏の「論文」は「幻想小説」だった!

タイポグラフィ学会誌04』所収 片塩二朗「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」の冒頭に、若き日の片塩氏が猪塚良太郎氏の仕事場を訪ね、清朝活字について教えられるという挿話がある。「25年前に廃業」とあるし、素直に読めば、1970年頃の思い出話と読める。論文の書き出しからエッセイというのも不思議だが、その下にある註では、猪塚良太郎氏について「詳細不詳」となっている。「数度にわたって訪問した」相手を「詳細不詳」というのもこれまた不思議なことだ。
この「エッセイ」で、片塩氏は何を言おうというのか。どうやら弘道軒の活字が、戦後も「役所」(外務省か宮内庁)で使われ、そのことは一般には知られていない、清朝活字にはそのような謎があるというらしい。
にわかに信じがたい話だが、この話の裏はとれるのか。まず、猪塚良太郎という人について調べてみた。

Googleで検索してみると、
大日本スクリーンのサイトの「描き文字考」
http://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography2/hk01/hk01_jyo3.htm
に、〈註3…欧文印刷研究会 1940年2月に結成された欧文活字・欧文印刷の研究会。馬渡務(印刷雑誌社)、本間一郎(印刷出版研究所)、木村房次(二葉商会)、猪塚良太郎(三友社印刷所)の四名を発起人として、井上嘉瑞(嘉瑞工房)、高岡重蔵、伊東政次郎(一色活版所)、今井直一(三省堂)、志茂太郎(アオイ書房)、藤塚崖花(三徳堂)、祐乗坊宣明(朝日新聞社)、渡辺宗七(民友社活字鋳造所)、原弘(東京府立工芸学校教諭/デザイナー)の13名が創設に参加。〉とある。

また内田明氏のブログでは、
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20070616#20070616fn1
で、*1に〈皇紀二六〇〇年(昭和十五年/一九四〇年)木村房次の前書き(御挨拶申上げます)によると、印刷雑誌社の馬渡務が記述を担当し三友舎猪塚良太郎が組版印刷を担当とのこと、印刷図書館所蔵〉(さらに内田氏の調べで、「印刷雑誌昭和32年の記事に三友舎社交印刷店の紹介があることがわかった)。

インターネットで調べられるのはそのくらいで、猪塚氏の人となりを知る術はなかった。手掛かりは欧文印刷研究会に名を連ねた嘉瑞工房の高岡重蔵氏しかない。2月16日、大熊肇さん(@Hajime_Okuma, http://tonan.seesaa.net/)と二人で嘉瑞工房を訪ねた。それ以前、メールのやりとりで、片塩論文に疑問点のあることは伝えてあったのだが、実際に話を伺うと、驚異的な事実が浮かび上がったのだ。

猪塚良太郎氏は1901年生まれといわれている。現在90歳の重蔵氏より20歳も年長であった。欧文印刷研究会に招かれ、猪塚氏を訪ねた重蔵氏は「坊ちゃんのお友達ですか」といわれたそうだ。同じ研究会に出ていたなら同年代だろうと思い込んだ私の予測は大はずれであった。1945年生まれの片塩氏が「まだお若いかただから」と呼ばれたなら、25歳の時として1970年、猪塚氏はすでに70歳。高岡昌生氏がメールで「猪塚氏に会ったというのは片塩氏本人ですか?」と確認してこられたのもうなずける。

高岡重蔵氏から伺った、猪塚氏のプロフィールを簡単に紹介しよう。
●戦前、主として欧文の印刷を得意とし、ホテルや皇室のメニューの印刷などを手がける。
虎ノ門の工房は戦災に遭い、戦後しばらくはその地でバラック平屋の建物で印刷業を再開。ただ、仕事はほとんど息子さんに任せていたらしい。
●昭和30年頃までには、虎ノ門の土地を売り、神谷町のオランダ大使館近くに移転。その大使館を手始めに霞ヶ関関係からも再び仕事を受けるようになった。
●晩年は病を得て、80歳をこえたくらいで亡くなっている。

猪塚氏が弘道軒清朝を持っていたかどうかについては、「戦前は確かに持っていただろうけれど、戦災でみんな焼けちゃっているからね」「戦後は弘道軒はない。あっちこっちでコピーしたものはいっぱいあった。関西では正楷書が人気になったけど(正楷書はもともと名古屋の津田三省堂が始めた)、関東では太い清朝のほうが好まれた」というお話を伺った。

そして、嘉瑞工房で見せて頂いたのが、「天皇の料理番」といわれた秋山徳蔵氏の私蔵していた実際の皇室のメニューを本にしたもの。その1930年頃のものは、猪塚氏の印刷したものだという。ちなみにその本には明治25年のメニューも載っていたのだが、そこに刷られた文字は確かに弘道軒清朝だった(2/18追記:大熊さんが撮影したものを見ると、疑問が浮かび、断定は避ける。再度確認するまでは清朝でないとしておく)。ただ、明治30年代には明朝体に変わっていた。一般の書籍から清朝が消えたのと同じく、ここでも明朝体がその王座を奪い取っていた。猪塚氏の売り所はアメリカから仕入れた欧文活字であり、それは実に美しいものだった。

高岡重蔵氏、昌生氏とも、片塩氏が重蔵氏にインタビューして書いた原稿の校正刷を本人に見せることなく本にしたことに、事実誤認が多く不快の念を覚えている。そのインタビューの間に何度か猪塚氏の話は出たにもかかわらず、片塩氏が猪塚氏に会ったことがあるとは一度も言わなかったと不審がっておられた。「会っているとは思えない」

もし、猪塚氏の印刷所を訪ねたとすれば、それは神谷町でなければおかしい。もっとも神谷町の家にしても、重蔵氏の記憶では活字を二階に置くために鉄の柱を立てたりはしていなかったというし、「円圧式大型凸版印刷機」については、「メニューや挨拶状だけでなく、結婚式の座席表を印刷することになって、大きな機械が必要になったようだ。二台も置いてはいないよ」とのこと。「二階に活字を置いたというのは、うち(嘉瑞工房)が神田にあったとき、一階を土蔵造りにして二階に活字を上げてたことがあった。その話なんじゃないのかな」(重蔵氏)

70年前、20歳も年下の重蔵氏を誘って欧文印刷研究会を起こした猪塚氏は、戦後も重蔵氏とは互いの家(工房)を訪ね合ったり、研究会の会合などで四方山話を重ねたという。片塩論文にあるような偏屈な人ではなかったと重蔵氏は証言する。

また、猪塚氏のことではないが、「ハンコも、用紙も、全部『役所』からの支給で」というくだりには、「菊の紋章の箔押し用の金版は宮内庁から借りて、何千枚か金箔押して型は返す、ってことはあるけど、役人が活字を保管したり揃えたりなんてやらないよ」と、これも常識で考えて当たり前の答えを頂いた。

嘉瑞工房を訪ねてわかったことは、片塩氏の「ふるいはなし」には辻褄の合うところがひとつもないということ。「エッセイ」どころか「幻想小説」だということだった。あるはずのない「虎ノ門の印刷所」で、猪塚氏が語ったとされる言葉は、すべて片塩氏の幻想の中の言葉ということになろう。故人の「言わなかった言葉」が、今後独り歩きすることのないよう願う。