『活版術』(韓国政府印刷局)

隆熙3年(1909=明治42)に出版された『活版術』については、小宮山博史明朝体、日本への伝播と改刻」(『本と活字の歴史事典』柏書房、2000年所収)で紹介されている。
印刷図書館で、現物を見てきた。隆熙3年とは日本による韓国併合の前年であるが、この書物を作った人々=韓国での活版印刷のための技術指導に努力する日本人技師たちの情熱が伝わってくる。
写真は高木徳太郎技師が、日本での活字サイズ調査を行った際の比較表。

日本印刷局、築地活版、製文堂、江川活版の二号から七号の活字を並べて、その実サイズがばらばらであることを確認している。さらにポイント検査器で、各活字のサイズを100分の1ポイント単位で計測している。
そして、その後のページでは、清朝についても記述がある。引用する。

 清朝活字即チ楷書文字ハ殆ント三十年以前頃盛ンニ新聞及雑誌類ニ
 使用セラレタルモ現今ハ案内状或ハ名刺等ニ用ヒラルルニ過キス東
 京弘道軒ハ清朝活字ノ専売所ナルカ其寸法ハ曲尺ニヨリテ割出シタ
 ルモノナレハ之ヲ他ノ明朝活字ト混用スルコト能ハス

として、一号から六号までの活字の裏(〓)を示してボディサイズを明らかにしている。
一号 三分五厘、二号 三分、三号 二分五厘、四号 二分、五号 一分五厘、六号 一分
と明確に書かれている。

明朝活字について、0.01ポイントまで計測した同じ人物が、清朝活字については曲尺の数値のみを示し、ポイント実測値は示していない。明らかにサイズ体系が異なること、また、「表類の組版には縦何寸横何寸と云ふ注文に対し大に便利」とまで記していることから、実測の必要を感じなかったものとみえる。
それにしても、「30年以前頃」というのは「明治30年より前」というのか、「明治42年に対して30年前」ということか、微妙であるが、弘道軒清朝東京日日新聞で使われたのが明治14年から23年までという事実とほぼ合ってはいる。

1934年の『開拓者の苦心』より、25年前に書かれた本である。本木の活字を「鯨尺」としたのが三谷幸吉の「独創」であることは確かだが、弘道軒が曲尺を基準としたことは、三谷の妄想ではない。片塩論文が「曲尺説の誤りを払拭」しようにも、現に氏の「実測値」が曲尺基準から「誤差の範囲内」であることを証明しているようにも見える。